とりぷるあいらんどのエトセトラ

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姉妹散歩 ③東叡山寛永寺のにわか

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東の比叡山 寛永寺に到着しました~。

こちらが根本中堂[本堂]です。(写真はフリー素材よりお借りしました)

真冬の寛永寺は簡古素朴、荒涼とした趣に感じました。

 

天台宗関東総本山の寺院で山号は東叡山(とうえいざん)
関東屈指の名刹であり、寺号に創建時の元号を使用することを勅許された数少ない寺院のひとつです。

開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来
徳川将軍家菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っています。

大河ドラマで一躍注目された篤姫さんもですね。

17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務めていたそうです。[輪王寺宮]

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 寛永寺は東叡山円頓止観院寛永寺といい、比叡山・日光山と並んで、江戸時代には天台宗大本山の一つでした。
 徳川家光の時、上野の山が江戸城の鬼門にあたることから、江戸城鎮護の祈願所として寛永二年(1625)本坊が竣工したので、その年号をとって寛永寺と名付けられました。また喜多院山号をとって東叡山と称しました。
 慈眼大師天海は、釈迦堂・多宝塔・三十番神社・清水観音堂・求聞持堂・弁財天堂・食堂・慈恵大師堂・山王社・別当本覚院等を建立しました。徳川家の菩提寺ということもあって、諸大名も競って諸堂を建立しました。
 しかし、幕末の彰義隊の戦争によってほとんど焼失し、後に本堂は喜多院より移されましたが、山内は上地を命ぜられ、本堂・清水観音堂・御廟屋と若干の支院を除いてほとんどが官有となり、後に恩賜公園(現 上野公園)となりました。
 本尊は薬師如来両界曼荼羅図や愛染明王図など数多くの寺宝があります。

           ------------------天台宗HPより----

 

江戸城の鬼門を芝の増上寺と上野の寛永寺で封じていたというのが定説でしょうか。

もともと徳川家の菩提寺増上寺で、増上寺は明徳4年(1393年)に創建されていて江戸幕府以前からあり、上野の寛永寺寛永2年(1625年)に創建され、江戸幕府後に出来たお寺です。

宗派も違いますよね。増上寺は浄土宗です。

家康が増上寺菩提寺に選定し「死後は一旦久能山に葬った後、一周忌をもって日光に移し東方の守りを行うので神式で葬るように」(意訳ね)と遺言し神になりました。[日光東照宮]

二代秀忠は「一門に神は一人でよい」と言い、菩提寺で先に死んだ妻のお江の眠る増上寺に葬らせました。以降徳川将軍はこれに倣い、神にはならず仏式で葬られます。

三代将軍家光は天海への帰依と家康への尊崇から、天海の寺である寛永寺で葬儀を行い、廟を立てた上で家康の眠る日光に葬らせました。

家綱や綱吉の葬儀と廟は家光に倣った寛永寺ということになったのです。

当然本来の菩提寺である増上寺側は不服を申し立てました。

6代将軍家宣はこれを要れて、自身の葬儀を増上寺で行わせ、以降は歴代将軍の墓所寛永寺増上寺に交替で造営することが慣例化したそうです。

最後の将軍である慶喜だけは谷中霊園に眠っていますが徳川慶喜については後述します。

 

 

つづく