とりぷるあいらんどのエトセトラ

だいたいこんな感じってのを独断と偏見でゆるく語るブログ

姉妹散歩 ④寛永寺のエトセトラ

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最盛期には現在の上野公園の2倍の広さを有していたという寛永寺、元の根本中堂は

上野公園東京国立博物館前の大噴水の場所にあったそうです。

栄華を極めた寛永寺がこれほどまでに縮小衰退したのは幕末から明治維新

当然ながら徳川300年の歴史の終焉に起因しています。

そしてその後の震災や空襲もあった為、ほとんどの伽藍は消失してしまったのです。

明治に入ると敷地の多くは召し上げられましたが、川越の喜多院から根本中堂としてお堂を移築し復興、しかし江戸時代の面影はもはやどこにもなくなってしまったのだそう。

私が抱いていた徳川将軍家菩提寺というイメージと、初見で感じた根本中堂のどこかさびれ殺風景にもみえた違和感はこのあたりから来ているんでしょうね。

 

新政府軍から追討令が出されると、最後の将軍慶喜江戸城勝海舟に任せ、寛永寺で謹慎を始めましたが、こちらの葵の間は残されており、予約制ではありますが歴代将軍の墓所とともに月に数回公開されているそうです。

宝塔の地下2mの下に、各将軍の遺体は棺に納められて埋葬されています。

寛永寺の廟所は基本的に江戸時代の形のまま残されており、一度も発掘調査は行われていないそうです。 

 

ちなみに増上寺墓所東京大空襲で焼けたため、昭和33年(1958)に遺骨の発掘調査が行われ、一ヵ所にまとめられました。

それで増上寺墓所はこじんまりと手狭な感じなのですね。

増上寺には14代将軍家茂へ嫁がれた、皇女和宮さまの墓所があります。

発掘時に発見されたガラス製の湿板写真に長袴に立烏帽子の若い男子が映っていたそうですが、一夜にして消えてしまったという不思議なお話もありました。

(このへん長くなりそうなのでまたお参り出来た時に書いてみたいと思います)

 

 

根本中堂で参拝のあと本堂内へ進み御朱印を頂きました。

御朱印にも書かれ、本堂正面にも掲げられている「瑠璃殿(るりでん)」

こちらの額は、東山天皇が自ら書いた勅額で元の根本中堂から掲げられていたものだそう。江戸城無血開城を不服とする旧幕府藩士たちが彰義隊と名乗り、徳川家の菩提寺がある上野寛永寺に集まり抗戦したのが上野戦争ですが、上野戦争の際には奇跡的に持ち出されて消失を免れたとのことでした。

 

少し距離はありましたが本殿奥の迫力の仏像群も肉眼で見ることができました。

  

谷中霊園へつづく