姉妹散歩 ⑤谷中霊園 やんごとなきひーさま
日光にも増上寺にも寛永寺にもない、大政奉還で政権を朝廷にへんじょうした最後の将軍、
見つけるのに結構な時間を費やしながらもたどり着くことが出来ました。
歴史ボランティア風のおじさんが、観光に来ている人たちを捕まえてはレクチャーしてくれています。
私たちの所へも勝海舟と書かれた野球帽をかぶった大柄なおじさんがどこからともなく
現れて貴重なお話を20分ほど聞かせて下さいました。
徳川慶喜は、大正2年11月22日に亡くなりました。77歳でした。
左後方に明治前の側室2名と明治後の側室2名(計4名)の墓
右後方には夭折した子供たち、右手前には7男の跡取り夫婦の墓
(ここまでは土葬なので一人一基づつ)
そして火葬になってからの代々の墓とかなりの人数の方々と眠られておられます。
お子さんは21名いらっしゃったそう。
朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言したそうです。
このため、皇族と同じような円墳が建てられました。
お隣は一橋一族のお墓。
そして門向かって左に分家のお墓(普通の形でした)
近くには、勝精(かつ・くわし)夫妻のお墓もあります。
勝精は、徳川慶喜の十男で母親は新村信です。
勝海舟の孫娘と伊代子と結婚しました。(円墳型でした)
一橋家時代よりの家臣であり後の「日本資本主義の父」渋沢栄一の立派なお墓も
ありました。
徳川慶喜は大政奉還の後、寛永寺大慈院で謹慎したあと江戸城開城の日に水戸に移り、さらに水戸から駿府に移り謹慎しました。
明治2年9月に謹慎が解除されましたが、その後も静岡に住み続けました。
明治30年に東京に転居し翌年31年(1898)に明治天皇に拝謁し、明治35年に公爵となりました。
明治以降の側室は信さんと幸さんのお二人でしたが
大変に仲が良く夭折した正室のお子さん以外はこのどちらかの子で
すべて正室の子として分け隔てなく育て、みなで一緒に暮らしていたそう。
政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・その他の趣味に没頭する余生を送ったそうです。
歴史的には評価の低い慶喜ですが、周りが何と言おうと好きに生き
たくさんの大好きな人たちに囲まれて眠るひーさま。
実際にお墓に行ってみていやな印象全然なかったんですよね。
やんごとなき幸せな人生だったねのねーというのが正直な感想です。
徳川最後の将軍というにしては遠慮がちで、まるで亀の背中のようなかわいらしい佇まいのお墓が、慶喜さんの人となりを忍ばせている様な気がします。
つづく